震災時の朝鮮人虐殺事件ー県による調査と慰霊措置もとめ

10月3日、党県議団は、大野元裕埼玉県知事あてに、関東大震災時の朝鮮人虐殺について、調査と慰霊措置を求め要望書を提出しました。

党県議団は、100年前の大震災時の朝鮮人虐殺は、県が発した移牒から端を発したものだとして、県の責任で調査と慰霊措置を求めています。

内容は以下の通りです。

 

関東大震災時の朝鮮人虐殺事件について、

県による全容調査と慰霊措置を求める要望書

関東大震災(1923年9月1日)の混乱下でおきた朝鮮人虐殺から100年がたちました。この9月、毎日新聞、埼玉新聞、朝日新聞など各紙によって、当時の悲惨な虐殺の様子が報道されました。1973年に発刊された関東大震災50周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会による「かくされていた歴史」によると川口、大宮、片柳村、熊谷、本庄、神保原、寄居、深谷、児玉、桶川、戸田、上尾の各地で約240人の犠牲が記録されています。

虐殺の直接の加害者は、各地の自警団ですが、埼玉県の場合9月2日に1市9郡所に向け発出された埼玉県内務部長の移牒が重要な役割を果たしました。同移牒(別紙)は吉野作造氏(東京帝国大学教授 1878年から1933年)が全文を書き残し、憲政会永井柳太郎議員も帝国議会で証言をしています。

知事は、9月5日の定例記者会見において「震災翌日の9月2日に、郡の役所が管内の町村に対し、『不逞鮮人放火ニ関スル件通牒』というのを発し、警戒を呼び掛けると同時に、一朝有事の場合には速やかに適当な方策を講ずるよう至急手配をしていただきたいと、『其の筋の内牒』により移牒をした、ということが記録として残っております。この通牒などによって、自警団の組織なども行われたものというふうに認識をしております。」と述べておられますが、だれが通牒を発したか明確にしておられません。また本庄・上里・熊谷の3市町が行った追悼式へはメッセージ送付をしませんでした。

 虐殺の加害者は裁判の場で「町村のため、国家のために働いて馬鹿をみた」と証言していますが、県の通牒が自警団からは虐殺命令と受け取られた可能性を示すものです。県内朝鮮人虐殺事件においては、埼玉県の責任は重いものがあります。

したがって、県として責任を明確にし、2度とこのような事件を引き起こさない決意を示すために、以下の点を強く要望します。

一、埼玉県内で引き起こされた虐殺事件の全容を調査し、報告書を作成すること。とりわけ埼玉県の果たした役割を明らかにすること

一、埼玉県として、祈念碑建立ほか追悼行事を行い、過ちを2度と繰り返さない誓いを犠牲者にささげること。

一、今後各地で行われる追悼行事に出席やメッセージ送付を行うこと。       以上