大分視察①後世に伝えていくべき歴史―人間魚雷「回天」大神訓練基地とキリシタン殉教記念公園

11月15日大分県が行っているアドボケイト(意見表明支援員)の取り組みを学ぶため、秋山文和県議、守屋裕子県議が大分県を訪れました。

アドボケイトの方たちとの待ち合わせ場所に向かう途中、人間魚雷「回天」大神訓練基地の魚雷調整プールがある回転記念公園とキリシタン殉教記念公園を訪れました。

 

人間魚雷「回天」

1941年12月8日の真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まりました。

1942年6月ミッドウェー海戦で敗北したことを転機に、物量、質とも日本軍を圧倒する米軍の反攻が本格化し、日本本土が攻撃にさらされるようになりました。そうした中で、魚雷に兵士が乗り込み自ら操縦して体当たりをするという作戦が採用されました。

「天を回らし戦局を逆転させる」との意味から「回天」と名付けられました。

「回天」は一度乗り込むと脱出装置がないため一度出撃すれば攻撃の成否にかかわらず乗員の命はありませんでした。

1941年に大神海軍工廠をつくるため100ヘクタール以上の広大な土地が海軍により強制買収されましたが、戦況悪化に伴いこの地での建設は中止になりました。1944年大神海軍工廠建設予定地の一部を回天特攻基地として転用され、1945年4月25日大神回天基地隊が開設され、魚雷調整場プール、変電所、練兵場などが整備されました。同年8月3日、同基地からの唯一の出撃があり、愛媛県宿毛湾へ進出しましたが、待機命令を受け、待機したまま終戦を迎えました。

この大神回天基地から出撃し、命を失った方はいませんが、この回天作戦で回天搭乗員106名を含め合計1073名が亡くなっているそうです。

回天搭乗員の方たちはどんな想いで回天に乗ったのか、想像してみると胸が絞めつけられる思いがしました。

毎年、地元の小学校ではここを訪れての平和学習を実施しているとのこと。戦争を体験した世代がい減っていく中で、歴史を二度と繰り返さないために、子どもたちにどう伝えていくのか問われています。

キリシタン殉教記念公園

大友宗麟の保護を受けたキリシタンは1585年には3万人を超えたそうです。現在キリシタン殉教公園になっている、葛木地区には多くのキリシタンがおり、1600年以降も豊後のキリシタン教界の中心の一つでした。

しかし、宗麟亡き後、次第にその教勢を失っていき、その後大友領地は7つの小藩に分断され、各藩主はそれぞれキリシタン弾圧に乗り出します。

1660年から1682年にかけて起こった弾圧、「豊後崩れ」によって500名以上の潜伏キリシタンが検挙され、多数の殉教者を出しました。

この記念公園は通称「獄門原」と呼ばれ、多くの殉教者の血が流されたと言われており、1970年、大分県下の殉教者たちを追悼するため、公園に整備されました。

この葛木村からは12歳の少女から87歳の老翁までの92名が検挙されたそうです。

回天記念公園もキリシタン殉教公園も後世に伝えていかなければならないと感じました。